「いい」と言われるものを、何でも信じて試してみる人と、
「いい」と言われても信じない、「いい」と言われるほど怪しいと、離れる人。
…どちらが幸せか。
人生は体験しかないのだから、
とりあえず、何でも試してみるのはおもしろい。
でも、世の中の多くは、
「そんなの、だまされやすいおめでたい人だ。
ちゃんと物事を見極める目をもたなくては」と言うだろう。
「幸せ」と「おめでたい」はどう違うのか。
では、いつまでも見極められなかったら、
もしくは、見極める目そのものが曇っていたら、
その人は結局、「疑う」という体験しかできなかったことになるのではないだろうか。
自分は「賢い」と思い込んで、
何でも信じてだまされる人を笑いながら、
結局、自分は「疑う」以外、何も体験していない。
そして、そのことに気づいてもいない。
「おめでたい」と言われ、
実際には、結構、だまされることもあり、
散財したりしてもいるけれど、
でも、その人はいつも楽しそうにしている。
その人には、いつも誰かが情報を持ってきてくれる。
最短で、最低のコストで、最高の結果につながることを
私たちは求めるけれども、
人生は、本当に欲しいものにたどり着くための、
取るに足りない体験でできているように思う。
「失敗」など存在しない。
ただ「体験」があっただけ。
その、取るに足りない、ちっぽけな体験のひとつが欠けただけで、
本当は、ゴールに辿り着けなかったんだよ。
だから、どんな体験でも、やった者勝ち。
そうやって見ていくと、
「おめでたい」とさげすまれる人が、
「賢い」こともあるかもしれない。
心のフィルターが澄んでくると、
今までと逆の価値観が浮かび上がってくるから。
社会から優遇されない人たちが、
経験豊富な魂だったり、
問題の人が、
本当は、キーマンだったりね。
どんどん見え方が変わってくる。
まるで、オセロで角を取ったときのように、
さっきまで黒だったものが、次の瞬間は白になっている。
おめでたい人は、それをおもしろがって見ているが、
賢いと思い込んでいる人は、
「黒だったはずだ」、「黒じゃないなんておかしい」と言って、
まるで目の前のコマが見えていないかのように言い張っている。
自分の目で、今起きていることを、そのまま見よう。
思い込みではなく、事実を見よう。
その目は、疑いすぎる人にも、信じすぎる人にも必要。